実力がつく信心の稽古とは、
昭和五十四年二月十六日 朝の御理解
御理解 第七十一節 「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中どういうことがないとも限らぬ。おかげはわが家で受けよ。子供があるものや、日雇取は出てくるわけにはいかんぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参ってくる事はできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ」
ここは、信心の稽古に来るところ。「まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ」と。「稽古」ということ。
皆さん、信心のけいこということは、拝むけいこと言うようなものではないようです。勿論、拝む事は大変大切ですから、参拝するという事も大切ですね。教えを頂くという事も大切です。
私は稽古という事は実力を作るという事だと思うのですね。実力を作るという事です。皆さんそれぞれにどういう信心の稽古をなさり、いうならばもう合楽理念をどういう事かマスタ−した、とね。言うならば拝む道も、もういろいろ暗唱した。毎日お参りをしておる。ならどの位実力が出来ましたかと言われた時に、自分の胸に手を置いてみて、自分の信心の実力と言うのはどの程度のものだろうかと思うてみて、いよいよこれは本当に実力を受けなければいけないなと、私は思わなければいけないなと思うです。
昨日は富久信会でしたから、昨日大阪の十四日会に先生が三人行っとりました。末永先生、竹内先生、それから佐田先生と。それで帰ってからのお土産話というか、あちらでお互い頂いてきた信心を昨日は中心にしておかげを頂いたんですけども、とにかく合楽理念の素晴らしいこと、合楽の信心のいよいよ有難いことを、いよいよ痛切に感じて帰ったと言うのが三人の先生のお話でした。
三人三様それぞれに頂いて来ている。結論すると、とにかく合楽理念の素晴らしいという事である。ですからお互いそういう素晴らしい信心を見たり聞いたり、または勉強させて頂いとるわけですから、その合楽理念がどれ程に身について、どれ程に言うなら実力を表し得ておるかという事を思ってみなければいけない。もし実力と言うて大した事もないとするならば、本気でここであるところの稽古をしとかないかん。けど皆さん自分のお商売の上に現れてくるいろいろな体験、おかげ話、または合楽理念をもって日々信心の稽古しておられる様子を聞かせて頂いたんですけれども、いよいよもって、もっともっとあかぬけした生き方にならなきゃいけない。
昨日は泉尾の教会のいろいろ頂いてきとる、一寸これ見てから、「あらこれは新聞を持って行っとったぢゃか」と思ったら、これはこういう新聞を今度泉尾で作っておられる。
もう全く「合楽だより」とスタイルが同じなんですね。で先生が言われたことも、とにかく合楽の「おかげの泉」と「合楽だより」を楽しみに見ておる。そして「合楽だより」を見ながら、これを作れというて、早速、言うなら真似をして作ったと言われるわけなんです。おかげを受けられる人は素晴らしいですね。なら合楽と泉尾と言うたら、それこそ親と子ほど教会は違うんですけれども、いうなら子供がしておる事でも、それが「ウン、これはいいぞ」と思うたら早速それが真似の出来るということ。実行に移せれるという事。やはり偉い先生は違うなと思った。合楽がこげん作っとるなら、もちっとりっぱなよいスタイルで、というようなものじゃない。もうそのまま作ってある。全く裏から読むならこれは「合楽だより」しか思わんでしょうね。私はそういうところへですね、例えば見栄とか、そうじゃない、本当に実力を頂く人はもう限りなく実力を作って行こうとるですね。それが負うた子に教えられる。教えられたらそれを実行する。改めて私は泉尾の先生の御信心に、またある一面に触れたような気が致しました。もう実行する表す以外にないです、信心は。
最近しきりに実験という言葉を使われますね、実験してそして実証して行くという生き方、そこになら実力と言えば、信ずる力、神様を信ずる力という事でしょう。親先生を信ずるという力を作ることでしょう。昨日もう皆さんの話を頂いて、最後に私の話を聞いて頂いたことですけれども、結局お取次を頂いての、合楽理念を通してのお取次でなからなければならないと言うことですね。合楽理念を通してのお取次を頂く。お取次を願うても、こんな事でいいだろうかという事を、果たして合楽理念はと。ここは合楽理念はどう説いてるだろうかとね。それに基づいてお取次を願う、そのおかげ頂いた話をさせて頂いた。合楽理念を通してお取次を頂いたらね、今までうれなかったものが、もうそれこそびっくりするように売れたというお話を昨日させてもらった。だから何でもよいけれども、どういう事でもよい、牛馬のことに至るまでとおっしゃるのだからいいけれども、合楽理念を通してのお取次であるかないかという事を一つ解からなきゃいけない。
昨日は福岡の方から十八名の方達が団体参拝をして来ました。午後の研修を頂いてそして帰られましたけれども、私はこれは、あちらのご信者さんだけの事じゃないけれども、みんな安易な方へ安易な方へと、言うならば楽な方へ楽な方へと、おかげの方へおかげの方へと、おかげの方へ向く傾向を私は持っておる。私共は合楽理念を通して考えたらすぐ答えがでるのだけれどもね、安易な方へ安易な方へと御取次頂いておかげを頂くといったようなところになりがちだ。信心の過程として仕方がないと言えば仕方がないけれども、それで始終したとするならば、稽古は出来はせんね。成程お取次の先生、金光大神のお徳によって願った事が成就するというおかげが受けられても、自分に力はつかないね。だからお徳をうけられた教会の先生が亡くなられたら、後ス−ッとするような感じがあるでしょう。
もう四、五日前にも福山の方から一連参って見えました。そしてある方がここでお届けをされますのに、「丁度こちらへ出がけに嫁が産気づきました。だから普通でいうならば、どうぞ安産のおかげを頂きますように」ということでしょうね。ところがそうじゃないです。「こちらへ出がけに嫁が産気づきましたから、どうどお名前を頂かせて下さい。」
皆さん、どげん思うですか、私は、だからすぐお名前を頂くという事よりか、「あんた産気づいとるなら、安産のおかげ頂くようにと言うて願う事が先じゃなかの」と言おうと思ったら、神様はここにはっきりお名前を下さったんですネ扁に谷と書いて、子。「ひろこ」と、いわゆる授産名を差し上げた。そしてその後に私は成程神様のお心というものは、また一つ分かったような気がしたんですけれども、そのお名前を頂いたら、うれしさまぎれに、すぐ「お名前頂いたよ、今度生まれるとは娘だよ」と言うてやろうと思うて電話室に入られたら、福山の方から電話が掛かってきた。おかげで娘が安産のおかげを頂いたとこう言う。だからここへ私がですよ、「そげな事よりかあんた安産のおかげを願う事の方が先ばい」と言うとったらおかしいでしょうが。もう生まれとるとじゃけん。成程神様がおかげ下さったはずだと思うのです。もう安産のおかげ頂いとるとじゃから。もうお取次頂く時に、だから神様が名前を下さったんだとね。
これなんかは私は本当に安易な信心だと思いますけれども、みんなそういう傾向に走ります。
そしたら昨日、もうその事がパァ−ッと散ったんでしょうね福山中に、信者さん中に「合楽に参ると合楽の先生がお届けしたら、もうそれこそお名前を先に下さったというお話が散ったにちがいないです。昨日参って来た人がそういうお届けばっかりするんです。「今度は売出しをしたいと思いますが、記念品は何百だん作ったがよかでしょうか」というふうなお取次なんですね。だから本当に売出しをするなら、売出しをする万事お繰り合わせをお願いします、といって願うのが先でなからなきゃならんけれども、その記念品の数を先に頂く。今度頂いたのは七百でしたから、七百なら七百のお客さんがおるなとわかるごたる感じがしますよね。手がいらんですやっぱり。
けどもこれでは実力は絶対につかないという事なんですよね。私は特別に取り立ててそういう働きを見せて下さるのは、神様がもう本当に皆の上に現れ出して踊り出そうとしておられるという事実を感じますですね。そういう事でもパッと神様の有難いことを分からせて、そして徐々に言うならば引いたり足したり、掛けたり割ったりというような信心を教導していって下さるんだけれども、受ける方の側はいつもプラスになる事ばっかりしか考えていないということね。これではおかげになるはずないです。お取次を頂いたら助かった、お取次を頂いたらおかげ頂いたというような事がもし続いたとするならば、信心の実力も力も徳も受けられるはずありませんよね。
十三日会の日に頂きましたように「八光一宇」ということね。あくる日の研修のときに八光一宇ということを芯にして研修させて頂いとりましたら、八つの光と、本当の八紘ね、糸偏に広いと書いてありますね。「八紘一宇」とがダブってこうやって頂くんです。ははぁ、だから両方に意味が、八つの光という事にも意味があるけれども、八紘という上にもやはり意味があるんだなあという事を思わせて頂いたんですけども、すぐ光昭が字引を引いてみた。ところが八紘ということはね、八つに広がって光が放たれる事だけれども、初めはプラスという字を書いてね、それを掛けの字を書いたら米、八つの八方になるでしょうが、皆さん十という字を書いてそして×の字を書いてごらんなさい。ね、そうなるでしょう。ははぁ成程八紘一宇という意味は、もういよいよ深く広く広くわからせて頂いたという気がするんです。お互い自分たちのおかげならおかげの上に、いやが上にもプラスしていくようなおかげだけを願う頂くことを、私は安易な信心だと思います。それでは力はつかん。
右と願って左となったと、言うなら×の字になった時ほど御神意が深いんだ、御神愛
の現れだというふうな頂き方が実際に分かって、初めて八方に広がるようなおかげが頂かれる。プラスが有難いなら、×の字もまた有難い。それが分かって初めて五と五と足せば十になると言うのが、五×五=二十五 といったような夢にも思わんようなおかげの進展という事になるのですね。
皆さん信心の稽古をさせて頂くのですから、只お願いをしておかげ頂く稽古ばかりじゃいかんのです。神様の心がいよいよわからなきゃいけんね。教えをいよいよ言うなら実験して行かなきゃいけん。日々そこから実証していくおかげを頂いて、どういう中にも神愛ありと悟らせてもろうてね。今日は久留米に商いに行こうと思いますが、または田主丸の方に商いに行こうと思いますがと、例えば二つのそこに迷いがあった時にです、神様どちらへ行ったらよいでしょうかと言うて、そりゃ久留米がいいぞ、田主丸がいいぞと言うて教えて頂くような信心では、実力はつかんという事ですね。
お伺いをすれば下さるんですね、神様が分かったならね、言うならば実力を作ると言うことの信心にならなければいけん。いわゆる安易な方を取ってはならんという事。
今日は信心の稽古という事がですね、実力のついて行く事の為の稽古でなからなければ、おかげを頂く事の為の言うならば稽古では、いつまでたってもおかげおかげで終始してしまわなければなりません。そしてなら神様がそんなに願い通りに必ず下さるはずないですから、頂いたり頂かなかったりね。だからおねがいして頂けば頂きも儲けととうごたる程度の信心が一生続いたってどうなりますか。それこそあの世に持って行けれる何ものもない、それではね、まず教えを言うならば実際に実験していくこと。そしてそこに現れてくる実証をもって神様の働きの間違いなさを分からせて頂くこと、それがどういう場合であっても、プラスの場合であっても、掛けの字の場合であってもそれを有難いと受けていけれる信心が出来た時です、八紘ね、それこそ自分の周囲のあらゆる面におかげが頂かれる、人間の幸せの条件のすべいが足ろうと行ったような、おかげはそういう信心からでなからなければ、生まれてこないと思うね。
あっこれはと思うたらすぐそれこそ泉尾の先生じゃないですけれどもね、合楽あたりの小さい教会ですよね、ま泉尾からみれば。なら生き方がです、これはいいと思うたらすぐにそれを行の上に表して行かれる。合楽の真似だんしてと言うておかしいじゃないかと言うふうな事は全然考えていない。おかげさえ言うならば頂けばそれでよいね。良いと思ったことはさっそく実行に移して行く、躊躇がないね。
椛目の時代の私は、あの時の事をまだ忘れんけども、久保山先生がこの土地のことで東京に行っとられる時だった。その時に頂いた御理解に「祈れ 薬れ」と言うてあるから、それまでは合楽は薬なんかそれこそ、薬やら医者やらと全然言いませんでした。ところがその時に薬も祈って飲めばよいというような意味の御理解を頂いた。そしたら皆んながもうすぐ、胃がこうどうか重苦しくなれば胃酸を飲む。頭が痛ければすぐノ−シンを飲む、というような安易な方へ走った傾向があったんです。神様がお知らせを頂いたんですれど、前が宮崎さんの田んぼでしょうが、あそこ稲がいっぱいあるところへ、繋いで合ったニワトリがはずした途端にツ−ッとどこさん行くかと思ったら、稲畑の中へはいって行って稲を摘むところを頂いたんです。
人間という者は、安易な探さんでんそこにエサがあるなら、もうそれを摘もうとするわけです。それをなら人間の邪魔になるからね、神様の邪魔になるような言うなら方へサッと信心を進めていく、実力を作っていくための邪魔になるような事に、安易なほうへパッと走ろうとする。
昨日、福山の方達のお取次を一人一人させて頂いて、人間という者は安易な方へばっかり走ろうとするな、そしてそれをおかげの用に思うな。だから安易な信心です。少しは骨のある信心ね、させてもらわねばです、私は実力がつかんと思うです。信心の稽古、それは信心の実力がついていく事が楽しうなるのである、有難うなるのである。
昨日、大阪から帰って来た先生が言ってましたけれども、とにかく合楽で言われる信心ね、言うならば有難うして楽しうして、しかも愉快にまでなれるという事を実際体験しておるから、よその方達の話というものが何か本当にまあ言うならつまらんお話、また本当に合楽の方達が頂く話じゃなかったと言うことです。
一燈園の一番偉い人のお話があったそうですけれども、一燈園と言えば皆さんもご承知のようにもうお掃除をしてまわったり、とにかく無理に求めないといったような生き方をする宗教です。そういう人達の集まりなんです。その方のお話を一時間半か二時間か頂いたそうですけども、そりゃあその修行の具合というのは素晴らしいけども、結局好き者の集まりだと、私は昨日それを言った事でしたね。例えばそういう趣味の人がありますよね、昔はスワラジ劇団というのがあった。あれは一燈園でした。もう来たならス−ッとその町の便所の掃除を一番先にするといったようなね、そしてそういう修行をしておりますからこういうおかげを頂きます、というようなものが全然ないわけです。私の修行中にはこういう修行させて頂きましたけれども、今日ではこういう言うならばこれが食べ物一つでも、なら着物一つでもですね、こういうふうにおかげ頂いていくというものでなからなければ、私それを程度が低いように言うたり思うたりする人がありますけれども、それは嘘だと思います。
信心しておかげをうけていくという事こそが神様の喜びであり願いでもあるのです。だから稽古の焦点が全然違うわけです。
私共の信心はその実証がなからなければおかしい。実験してみて、それが本当のおかげにつながっていかないならばおかしい。実験してみて、それが本当のおかげにつながっていないならば、これはまあだ信心が足りんのだ、これはまだ本当のところに触れていないんだ、いや自分の信心が安易なだけな信心だというふうに悟らせて頂いてね、実力のつく信心の稽古に励まなければならんという事でございます。
「どうぞ」